古代の「た」の音
 
 
伊都国はほとんどの人が「いと」と読んでいる。だが言語学者は「イタ」と読む。
伊都は「イタ」と読むべきである。伊都国の「伊」は、後漢書四十二巻の「楚王英伝」によると男性仏教信者を意味するサンスクリット語の「upasaka」を「伊蒲塞」と表記してある。上古音では伊=u=ウであったことが分かる。 「うた→いた→いと」と呼称が変化して来たようだ。 糸島市三雲遺跡の北側に「宇田、井田、板持」の地名が残っている。

 南方から新しい舟が入って来ると、その舟の名称はそのまま発音され、漢字が宛がわれた。いわゆる外来語である。高速の船を「カヌー」「カノ―」と呼んで、漢字の「枯野」と記紀は書表している。

古事記 仁徳天皇
「有一高樹 其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山 故切是樹以作船、
 甚捷行之船也、時號其船謂
枯野
(高木を切って造った舟は、いたく速く行く船で、その船を
枯野と言う)

枯野は、カヌーの音写である。ハワイ語で双胴船を「カウカヒ」と呼び、カタマラン型のカヌーを「カウルア、タウルア」と呼ぶ。「ヌイ」は「大きい」の意味で、この「タウラ・ヌイ」が現在でも数多く残っている地名の「田ノ浦」の語源と考えられている。そのほとんどが海岸線にある。


                      久留米地名研究会 古川 清久

万葉集には「伊豆手夫禰」「伊豆手乃船」の表記がある。古代「手」は「た」「て」の二音があった。神武天皇の長子手研耳命(たぎしみみのみこと)日本書紀では「手研耳命」、古事記では「多芸志美美命」と表記される。古代の「手」は、「タ」の音である。現在でも武豊が握るのは「手綱」(たずな)として残っている。





             
  板持の「た」

 糸島市の瑞梅寺川の河口に「板持」の地名がある。古代の瑞梅寺川はもっと真っすぐに流れてから今津湾入っていた。福岡在住の古代史家「生野眞好」氏の研究によると川の両側に「西口、東口」の古地名があるそうだ。おそらくここに荷下ろし、荷積みの施設があったのではないだろうか。
                 

 「持」は高い、貴の意味があり、大きな港に使われていたと思われる。現在でも他にも「板持」の地名が残っている。

              福岡県糸島市                 

              山口県長門市                
                 

              大阪府富田林     

              福岡県北九州市                 

 板堰は、平安時代には「イタムツ」と読ませている。
いずれの地も、大きな船着場であったと考えられる。

伊都は「イタ」と呼ばれ、海人族の活躍する港だったのである。「東南陸行五百里」の伊都とは、自説では佐賀県牛津と考えている。





               阿曇族の「た」

 近畿地区での阿曇氏の活躍は、数多く記録に残されている。近畿阿曇氏の祖名としては、「大栲成吹」(オホタクノナリフキ)が一般的な解釈である。

「新撰姓氏録」の「大栲」が人名であって、「成吹」は「吹き成し」と読み、火を吹いて「御食を炊く」ことを意味し、延喜式「安曇宿禰吹、火」と安曇氏の職掌であると推察されている。安曇氏は、神今食の祭事にも同様の職務に従事している。

「新撰姓氏録」によれば、安曇宿禰と同祖関係にある「凡海氏」は、「綿積命六世孫小栲梨命之後也」とあるが、安曇氏の「大栲」に対し、凡海氏の「小栲」は、互いに対応している。

栲(タク)とは、海人が海に潜る時の命綱を「栲縄」タクナワと言い、これに因む名前である。

「タ」が舟、海を表している。 


 


       



   

                   
                   
                   




 

 


 



































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