其北岸狗邪韓國 

紀元前韓半島南部には多くの縄文人が先住していた。この縄文人達は、7300年前の鬼界カルデラの噴火で西日本一帯が火山灰に覆われたため、新天地を求めて移住して来た縄文人の末孫と思われる。韓国釜山の東三洞貝塚は5個の文化層に区分され、放射性炭素年代測定の結果7500年前から3500年前までの約4000年間に形成されたものと推定されている。土器、石器、骨角器、儀礼用具の中に縄文土器や九州産の黒曜石も多数出土している。
 

                                       

 狗邪韓國の住人はこの倭人と越人達である。「其戸數道里可得略載」がないので倭地ではないという意見があるが、短文化の名人陳寿は、「大海之中」と「之」の一文字を特別に増やし、日本列島の倭人に限定している。裏を返せば、韓半島南部にも倭地があったからと考えるべきだろう。後漢書の范曄は、「其西北界狗邪韓國七千餘里」と倭地としている。中国青島市、半島南部、九州北部と広いネットワークを持ち、海上活動をしていた越人だからこそ、中国王朝に対しても俊敏で適切な対応が出来たのである。

 景初元年公孫淵討伐のため明帝が船の建造を始めた時、その情報はすでに狗邪韓國に伝わっており、越人達は公孫淵討伐の勝利を確信していたのである。少ない貢物は戦時中につき最小限に抑えられたと考えるべきで、明帝の景初二年である。

 紀元前の倭人の権力の中枢はこの狗邪韓國にあり、57年以後は交易の中継および情報収集の役割を担った。卑弥呼の時代でも狗邪韓國が司令塔なのである。  
  

             

                    
                   



 

 


 



































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