當在會稽東冶之東 

 漢書地理誌 「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」

 陳寿は楽浪郡を帯方郡に変えている。これは公孫康が置いた帯方郡を司馬懿が配下に治め、これによって卑弥呼の使者が朝貢した事を倭人伝の出発点としたためである。この時代の史書は儒教枠内にあり、まだ自立していない。史実を伝えるよりも、王朝継承の正当性を唱えるために存在していた。中国は、天下の大きさを儒教経典で定めていて、方三千里から方一万里へと変化して来ている。陳寿は儒教の教えに背いたとして二度の失職をしている。倭人伝は儒教の影響を大きく受けているのである。

「計其道里 當在會稽東冶之東」(まさに會稽東冶之東に在るべし)

 これが倭人伝の主文である。蜀の背後にある大国「親魏大月氏」。「親魏倭王」も呉の背後の海上にある大国であるはずであった。陳寿は倭人が言う「自謂太伯之後」を記載できない。記載すれば敵国呉と倭人が同祖になり、孫呉の背後の脅威としての倭国が崩れる。後漢書では「大較在會稽東冶之東」と記されているが、陳寿はここでも「大較在」(おおむね)を「當在」(まさにある)改変し強調している。この文章は地理ではなく風俗記事の中にある。

 陳寿は楽浪郡を帯方郡に変えている。これは公孫康が置いた帯方郡を司馬懿が配下に治め、これによって卑弥呼の使者が朝貢した事を倭人伝の出発点としたためである。この時代の史書は儒教枠内にあり、まだ自立していない。史実を伝えるよりも、王朝継承の正当性を唱えるために存在していた。中国は、天下の大きさを儒教経典で定めていて、方三千里から方一万里へと変化して来ている。陳寿は儒教の教えに背いたとして二度の失職をしている。倭人伝は儒教の影響を大きく受けているのである。

「計其道里 當在會稽東冶之東」(まさに會稽東冶之東に在るべし) これが倭人伝の主文である。蜀の背後にある大国「親魏大月氏」。「親魏倭王」も呉の背後の海上にある大国であるはずであった。陳寿は倭人が言う「自謂太伯之後」を記載できない。記載すれば敵国呉と倭人が同祖になり、孫呉の背後の脅威としての倭国が崩れる。後漢書では「大較在會稽東冶之東」と記されているが、陳寿はここでも「大較在」(おおむね)を「當在」(まさにある)改変し強調している。 陳寿は晋の開祖としての司馬懿の功業を宣揚するために、倭国を孫呉の背後の脅威として東南海中の大国に描いた。それと同時に曹魏の方針が、西の大国である蜀の背後にある大月氏と同様に、倭国の存在を押し上げていた。

 倭人伝にある「奴國、不彌國、投馬國」は他の史書に記載がない。そして魏略は伊都國で終わっている。倭人伝の伊都國も「到」が使われ目的地である。
  
廣志「イ妾國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、百女国以北」
伊都國から距離のない「又南」と連続して邪馬壹國が記載されている。魏使の目的地は伊都國であり、南に隣接して邪馬壹國があったことになる。「奴國、不彌國、投馬國」は行路外の国々であり、他書が引用するはずがない。「奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王」 魏使は卑弥呼と対面している。平原にいた卑弥呼が伊都国の迎賓館まで出向いたと思われる。


       狗邪韓國
       對馬國
       一大國
   末廬國< ↓
       伊都國ーーーーーー不彌國(宮地獄)
       卑弥呼 \  \           邪馬壹國(飯塚)
             \  \奴國(福岡春日市)
               \
                 \投馬國(宮崎)
 

 しかし陳寿はそのまま記述できない。それでは最終目的である「會稽東冶之東」に遠く及ばない。一計を案じた陳寿は、伊都国の東側にある行路外の三ヶ国の記事を伊都國に繋げ、邪馬壹國との間に差し込んだ。そして「水行十日 陸行一月」の記事を使い、その距離を曖昧に表現した。この情報は266年の朝貢時の情報と推理する。倭国使が九州北部から洛陽に至る行程の報告記録と思われる。范曄はこれに気付き、「楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里」と倭国を始点とし帯方郡を到着地として逆に描いた。しかし陳寿はウソを書いていない。大鴻臚にあらかじめ整理されていた原資料を都合よく編んだのである。

 


                    
                   



 

 


 



































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