漢委奴国王

 漢の武帝の連年に及ぶ征服政策のため武帝が死亡した前87年には人口は激減し、農業生産は落ち込み散々な状況となっていた。王莽時代には六千万、後漢の光武帝が14年かけて統一した時には一千五百万人である。人材不足に悩む後漢の光武帝は、前30年半島東部の嶺東七県を放棄し濊貊の長に委託した。また真番の故地は韓人の廉斯を交易の窓口として特権を与えた。

 倭人に対しても同様で、半島南部と九州北部にの海域に勢力を持つ委奴国の長を代表にし、窓口を一本化した。漢委奴国王は倭国王ではないが、当時の倭国内ではこの委奴国の勢力は最大だった。この制度は中国側の経済的な事情によるもので、委奴国が政治的に成長して勝ち得たものではない。倭国王と記載されたは107年の帥升である。この帥升が狗邪韓國から九州北部へと南下し、倭国統一をしたと考えている。「井原鑓溝遺跡」が該当するのだろう。

 184年黄巾の乱が勃発すると漢委奴国王の制度も壊れた。成長してきた諸国の王達は独占禁止を唱え、福岡市西区の今津湾の権益争奪戦になった。長引く戦から話し合いが持たれ、「共立一女子爲王 名曰卑彌呼」が倭王となって終結した。卑彌呼は宗教的な存在で、実際は「男弟佐治國」が王であった。男王では終結出来ないための応急手段である。共立された宗教王に強い権限があるはずがない。いつの時代でも現実は男社会である。

 委奴国は広形銅矛祭祀を行っていた。ところが福岡市では墓からの出土はなく、人里離れた谷間などから出ている。これは委奴国における越人の数が少なかったからではないだろうか。対馬では墓の中に埋葬されているが、鋳型は出ていない。あくまでも完成品としてであり、春日市から対馬へ持ち込まれた物である。他には大分、愛媛、高知南部からの出土があり、これが委奴国の共同祭祀勢力である。高地南部では現在でも広形銅矛祭が行われている。「女王國東渡海千餘里 復有國」は四国である。


 








委奴国の王墓は連綿と続いている。
(吉武高木遺跡ー須玖岡本遺跡ー三雲遺跡ー一貴山銚子遺跡と山頂)の関係を見てみると、「緯度33度」の直線上にきちんと並んでいる。同じ信仰を持った人達の遺跡である。東は宝満山、西は飯盛山であり中心である


   三雲遺跡       緯度  33度 32分 00.24秒  
   須玖岡本遺跡     緯度  33度 31分 57.05秒
   吉武高木遺跡     緯度  33度 32分 02.54秒 

   宝満山        緯度  33度 32分 23秒
   飯盛神社       緯度  33度 32分  5.77秒
   一貴山銚子塚古墳  緯度  33度 31分  58.79秒  


                 「大宰府・宝満・沖ノ島」伊藤まさこ著

     「糸島三雲遺跡は伊都国ではない。委奴国である」




 日本書紀 国譲り
 
故、大己貴神 則以其子之辭 白於二神曰「我怙之子 既避去矣 故吾亦當避 如吾防禦者 國內諸神 必當同禦 今我奉避 誰復敢有不順者 」乃以平國時所杖之廣矛 授二神曰「吾 以此矛卒有治功 天孫若用此矛治國者 必當平安 今我當於百不足之八十隅、將隱去矣」

国譲り神話とは、越人から縄文人への政権交代を表していると考えている。8世紀に編纂された史書にこの神話を取り入れているのは、政権交代時の強い喜びが伝承されて来たからだろう。

大国主は「我が子はもういない。私が身を引けば諸国も戦わないでしょう」と言い、国を安定させた広形銅矛祭祀を天孫に勧めている。広形銅矛が出土している対馬に移住して行ったのだろう。

糸島に残った海人族は、その後も今宿古墳群にその繁栄ぶりを残している。



                    
                   



 

 


 



































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